摘 要:日本平安時代的女性日記《蜻蛉日記》是出自女性作家藤原道綱母之手的私人日記。但是,作為在日本攝關(guān)政治時代舉足輕重的藤原兼家的妻子之一,藤原道綱母所創(chuàng)作的具有私人性的《蜻蛉日記》,在一定程度上亦反映了丈夫藤原兼家的政治行動,具有一定的“政治性”。在《蜻蛉日記》中最能夠體現(xiàn)其“政治性”的,則是在村上天皇駕崩之際,藤原道綱母與曾經(jīng)得天皇寵愛的藤原兼家的妹妹——藤原登子的交際。因此,筆者通過考察《蜻蛉日記》中藤原道綱母與藤原登子的交際,發(fā)現(xiàn)藤原道綱母對藤原兼家的仕途所帶來的裨益,進(jìn)而體現(xiàn)王朝女性日記《蜻蛉日記》所帶有的“政治性”。
關(guān)鍵詞:蜻蛉日記;政治性;藤原登子;藤原兼家
在日本平安時代的女性日記《蜻蛉日記》中,作者藤原道綱母與社會上層貴婦人交際的場景屢屢出現(xiàn)。如,與成為冷泉天皇女御的藤原兼家的異母妹藤原怤子互贈附帶和歌的“かりのこ”,在村上天皇駕崩之際與曾得天皇寵愛的藤原兼家的妹妹藤原登子互贈和歌,與追隨出家的丈夫而出家為尼的藤原佐理的妻子和歌互答,以長歌贈予“安和之變”中源高明的妻子(藤原兼家的異母妹),等等。其中,與藤原道綱母交往最為密切、最能反應(yīng)藤原兼家政治動向的則是藤原兼家的妹妹藤原登子。筆者將從“歷史文獻(xiàn)中的藤原登子”、“《蜻蛉日記》中的藤原登子”、“藤原道綱母與藤原登子的交際對藤原兼家政治行動的反映”,考察《蜻蛉日記》的“政治性”。
一、歷史文獻(xiàn)中的藤原登子
最初,藤原登子是醍醐天皇的皇子重明親王的王妃。重明親王薨后,進(jìn)入村上天皇的掖庭,深得其寵。在日本具有代表性的歷史文獻(xiàn)《大鏡》、《榮花物語》中,皆有對藤原登子如上事件的歷史記載。
在《大鏡》(師輔)①中,對藤原登子的歷史記載如下:
まことこの后の宮の御弟の中の君は重明式部卿の宮の北の方にてぞおはせしかし。その親王は村上の御はらからにおはします。この宮の上、さるべき事の折は物見せ奉りにとて、后のむかへ奉り給へば忍びつつ參り給ふに、御門ほのかに御覧じて、いとうつくしうおはしましけるを、いといろなる御心ぐせにて、宮にかくなむ思ふとあながちにせめ申させ給へば一二度知らず顔にてゆるし申させ給ひてけり。さてのち御心は通はせ給ふげなる御けしきなれど、さのみはいかがはとやおぼしめしけむ。后さらぬ事だにこのかたざまはなだらかにもえつくりあへさせ給はざめるなかに、ましてこれはよそのことよりは心づきなうおぼしめしぬべけれど、御あたりをひろうかへりみ給ふ御心の深さに、人の御ため聞きにくくうたてあれば、なだらかに色にもいでずすぐさせ給ひけるこそ、いとかたじけなうかなしき事なれな。
在《榮花物語》(月宴)②中,對藤原登子的歷史記載如下:
御容貌も心も、をかしう今めかしうおはしける。色めかしうさへおはしければかかることもあるなるべし。
二、《蜻蛉日記》中的藤原登子
在《蜻蛉日記》藤原道綱母對藤原登子的稱呼中,有“貞観殿の御方”、“客人の御方”、“あの御方”、“かの御方”、“尚侍の殿”③等。藤原道綱母與藤原登子和歌互答、藤原登子退居藤原道綱母新宅西、藤原道綱母與藤原登子互贈附帶和歌的木人偶、藤原兼家給藤原登子的信件誤寄至藤原道綱母處、藤原登子除服時退居藤原兼家宅、藤原道綱母與藤原登子整夜和歌贈答、藤原道綱母與成為尚侍的藤原登子互贈和歌等等,是《蜻蛉日記》中藤原道綱母與藤原登子交際的主要相關(guān)事件。
《蜻蛉日記》中,在村上天皇駕崩后,有如下記敘:
(ア)④御陵やなにやと聞くに、時めきたまへる人々いかにと、思ひやりきこゆるに、あはれなり。やうやう日ごろななりて、貞観殿の御方に、いかになどきこえけるついでに、
世の中をはかなきののとみささぎのうもるる山になげくらむやぞ。
御返りごと、いと悲しげにて、
おくれじとうきみささぎに思ひいる心は死出の山にやあるらむ。
這是關(guān)于藤原道綱母與藤原登子交際的最初記敘。如文中所述,如此親近的交往似乎從很早之前就開始了。不言而喻,這是通過藤原兼家而進(jìn)行的交際。從某種意義上說,二人如此親密的交流也表明了藤原兼家對藤原登子的接近。
此外,《蜻蛉日記》中有以下兩處也對藤原道綱母與藤原登子的交際進(jìn)行了描寫:
(イ)十二月つごもりがたに、貞観殿の御方、この西なる方にまかでたまへり。つごもりの日になりて、儺などいふもの、こころみるを。
(ウ)この御方、東宮の御親のそとしてさぶらひたまへば、まゐりたまひぬべし?!袱Δ皮洹工胜伞ⅳ郡婴郡印袱筏肖筏筏肖贰工趣韦郡蓼丐?、宵のほどにまゐりたり。時しもこそあれ、あなたに人の聲すれば、「そそ」などのたまふに、聞きもいれねば、「宵惑ひしたまふやうに聞こゆるを、ろなうむつかられたまふは。はや」とのたまへば、「乳母なくとも」とて、しぶしぶなるに、もの歩みきて、きこえたてば、のどかならで帰りぬ。またの日の暮に、まゐりたまひぬ。
這兩處描寫了作為貞觀殿的藤原登子在藤原道綱母新宅以西短暫居住期間的交際。
最后,在《蜻蛉日記》天祿元(九七〇)年六月的記事中,有如下記載:
(エ)貞観殿の御方は、一昨年、尚侍ななりたまひにき。あやしく、かかる世をもとひたまはぬは、このさるまじき御仲のたがひにたがひにたれば、ここをもけうとく思すにやあらむ、かくことのほかなるをも知りたまはでと思ひて、御文奉るついでに、
ささがにのいまはとかぎるすぢにてもかくてはしばしたえじとぞ思ふ。
ときこえたり。返りごと、なにくれといろあはれに多くのたまひて、
絶えきとも聞くぞ悲しき年月をいかにかきこしくもならなくに。
これを見るにも、見聞きたまひしかばなど思ふに。
在此期間,由于藤原兼家與藤原登子在政治上陷入不和的狀態(tài),藤原道綱母與藤原登子的和歌贈答也少了許多。
三、藤原道綱母與藤原登子的交際對藤原兼家政治行動的反映
如第二部分“《蜻蛉日記》中的藤原登子”中的(ア)所述,從藤原道綱母與藤原登子的親密交際來看,這也是藤原兼家接近藤原登子的一種特殊的方式。在中宮藤原安子去世后,藤原登子幾乎獨(dú)占了村上天皇晚年的所有寵愛,這是日本歷史中明確記載的不爭事實(shí)。由此,藤原登子的存在對于村上天皇晚年的意志決定是具有很大的影響力的。鑒于此,在藤原兼家升任東宮亮的背后,也少不了藤原兼家及藤原道綱母與藤原登子親密交際的支撐。可以說,在中宮藤原安子去世后,貞觀殿藤原登子在九條家的動政治勢上發(fā)揮著舉足輕重的作用。
在考察第二部分“《蜻蛉日記》中的藤原登子”中的(イ)、(ウ)兩部分時,不得不提及日本歷史上守平親王的立坊問題。以藤原登子為中心,藤原伊尹(藤原兼家的兄長)與藤原兼家積極擁立守平親王。所以,藤原登子退居藤原道綱母新宅以西,也就意味著藤原登子與藤原兼家政治動向的一致性。
然而,在第二部分“《蜻蛉日記》中的藤原登子”的(エ)中,藤原兼家與藤原登子在政治上陷入了不和的狀態(tài),其原因在于藤原兼家企圖借對守平親王的擁立以擴(kuò)大自己的政治權(quán)力。在(エ)的前一年,伴隨著冷泉天皇的讓位,守平親王即位。在圓融天皇誕生后,藤原登子成為尚侍。但是,藤原兼家是在冷泉天皇在位時取得了令人矚目的晉升,因此,此種政治局勢并不是他所期望的。此外,在藤原實(shí)賴去世后,藤原伊尹與圓融天皇關(guān)系密切,這也令藤原兼家很是不悅。加之,在圓融天皇即位后,相較于藤原兼家,藤原登子與藤原伊尹的關(guān)系更加密切,這也關(guān)系到藤原伊尹后期得以攝政。也許,這就是藤原兼家與藤原登子在《蜻蛉日記》中委婉地展現(xiàn)出的不和的原因所在吧。
注 釋
① 橘健二.日本古典文學(xué)全集20大鏡.[M].日本:小學(xué)館.1974.12
② 高木市之助、西尾串實(shí)、久松潛一.日本古典文學(xué)大系75栄花物語(上).[M].日本:巖波書店.1964.11;日本古典文學(xué)大系76栄花物語(下).[M].日本:巖波書店1965.10
③ 本文中所引用的《蜻蛉日記》日文原文皆出自『日本古典文學(xué)全集9土佐日記·蜻蛉日記』([M].日本:小學(xué)館.1982.10)。
④ 為方便下文論述,特此加入編號(ア)、(イ)、(ウ)、(エ)。
參考文獻(xiàn)
[1] 『一冊の講座』編集部.一冊の講座 蜻蛉日記 日本の古典文學(xué)1.[M].日本:有精堂.1981.4
[2] 日本文學(xué)研究資料刊行會.日本文學(xué)研究業(yè)書 平安朝日記1.[M].日本:有精堂.1971.3
[3] 岡一男.道綱母.[M].日本:有精堂.1970.10
作者簡介:鄧曉婕(1993—),女,漢族,山東省濟(jì)南市人,助教,文學(xué)碩士,單位:齊魯師范學(xué)院,研究方向:日本文學(xué)。