李奕瑛
『萬(wàn)葉集』は日本に高い歴史的価値を持っている。日本で誰(shuí)でも知っている和歌集である。最近人気がある映畫(huà)「君の名は」も『萬(wàn)葉集』の影響を受けられた。その原因で、日本だけでなく、世界にはその和歌集を好きな人がだんだん増えている可能性がある。本稿はまず『萬(wàn)葉集』を簡(jiǎn)単に紹介した。それから、月(つき)を詠んだ歌について作者の感情や気持ちを分析した。最後はまとめの部分である。
1.『萬(wàn)葉集』の紹介
『萬(wàn)葉集』は日本の最古の和歌集である。四世紀(jì)から八世紀(jì)までの4500首以上の和歌を集めた。作者は天皇から庶民まで様々な人々である。內(nèi)容には雑歌、相問(wèn)歌、挽歌の三つの部類(lèi)がある。雑歌は相聞歌、挽歌以外の歌が収められて、相聞歌は主に男女の戀を詠み、挽歌は死者を悼む和歌である?!喝f(wàn)葉集』には自然、草花、四季、生き物などがたくさん登場(chǎng)する。その中に月(つき)を詠んだ和歌は220首、総數(shù)5%を占める。
2.『萬(wàn)葉集』の月を詠んだ歌の考察
『萬(wàn)葉集』で月を詠んだ歌は、作者のどのような感情を表現(xiàn)するか。本稿はたのしい萬(wàn)葉集サイトから代表的な和歌を選び出し、三つの方面から分析した。
まずは、離れの苦しみと逢いたい気持ちは月と繋がる。月に曇りや晴れ、満ち欠けがあるように、人間は悲しみや喜び、逢いや別れがある。たとえば妻を逢いたい柿本人麻呂の作る歌
去年見(jiàn)てし秋の月夜は照らせれど相見(jiàn)し妹はいや年離る
―柿本人麻呂『萬(wàn)葉集』第二巻
去年、妻と一緒に月を見(jiàn)たことがある。そのときの月は、今も明るく照らしている。だが、妻は亡くなってしまった。夜に月をしか見(jiàn)上げなくて、慰めを求める。月が欠ければ必ず満ちるのもあるが、妻ともう一度會(huì)えることができない。もっと寂しくなる。作者の感情は月としっかり繋がっている。
月見(jiàn)れば同じ國(guó)なり山こそば君があたりを隔てたりけれ
―大伴池主『萬(wàn)葉集』第十八巻
それは大伴池主が大伴家持に贈(zèng)った歌、三首のうちのひとつである。同じ月が夜を照らしていて、作者は友人に対する感情を月に寄せる??臻gの隔たりを取り除いて、友人と話したい。作者は自分の悲しみと寂しさが誰(shuí)にも言わない。その気持ちを理解してくれた人もいない。だが、どんなところでも月を見(jiàn)ることができる。したがって、自分の気持ちを月にしか寄せない。月を通して自分の気持ちを相手に屆きたい。月は重要な部分である。そのほか、戀人を逢いたい気持ちを月で表す和歌は多い。たとえば
三日月のさやにも見(jiàn)えず雲(yún)隠り見(jiàn)まくぞ欲しきうたてこのころ
―作者不詳『萬(wàn)葉集』第十一巻
妹が目の見(jiàn)まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし
―作者不詳『萬(wàn)葉集』第十一巻
戀人を逢いたい気持ちや逢えない悲しみなどの感情は、夜に流れ出しやすい。月は夜で出現(xiàn)するものである。一緒に出て來(lái)る星よりずいぶん明るくて、人々に気にされる可能性が大きい。人間は悲しい時(shí)、夜の月を注意することがよくある。実は、星に感情を寄せる和歌もあるかもしれないが、星の數(shù)は多過(guò)ぎる。それは戀の唯一性と違和感がある。したがって、以上の和歌のように、離れの気持ちと逢いたい気持ちを星になく月に寄せる。要するに、月に寄せる感情は、戀にかかわるだけでなく、家族愛(ài)や友情にもかかわる。
次、月を神様と考えていた和歌である。日本神話の中で、月読壯士あるいは月人壯士という神様ある。それは月のことである。以下は月の神様を詠む和歌である。
天にます月読壯士賄はせむ今夜の長(zhǎng)さ五百夜継ぎこそ
―湯原王『萬(wàn)葉集』第六巻
天の原行きて射てむと白真弓引きて隠れる月人壯士
―作者不詳『萬(wàn)葉集』第十巻
日本の神様と言えば、「八百萬(wàn)神」という言葉を思い出す人が多い。それは、神様は八百萬(wàn)いることではなく、どんなとことでも神様が存在することを指す。日本は狹い島國(guó)で、地震や臺(tái)風(fēng)などの災(zāi)害が多くて、無(wú)事に生きていくために、自分の願(yuàn)いを神様に頼むようになる。日本人は神様に対する崇拝あるいは尊敬は、主に災(zāi)害を恐れるから生み出すのである。もちろん、自然に恵まれて尊敬する気持ちもある。日本ではいろいろな神様がいる。たとえ場(chǎng)、福の神、天の神、山の神などである。トイレでも神様がいる。我々は日本人よりずいぶん穏やかな自然環(huán)境で生活するので、日本人の気持ちを十分理解しにくいかもしれない。以上の説明のように、日本で月の神様がいるというのはもちろんである。作者は自分の願(yuàn)いを月に寄せる。それは、月に対する崇拝と尊敬の気持ちである。最後は、ただ月を詠んだ歌である。その中に、月の美しさを好む和歌がある。たとえば、
雨晴れて清く照りたるこの月夜またさらにして雲(yún)なたなびき
―大伴家持『萬(wàn)葉集』第八巻
作者は月の光を好きなので、気持ち良くその和歌を作った。そのほか、月を船に例える和歌もある。
天の海に雲(yún)の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見(jiàn)ゆ
―柿本人麻呂『萬(wàn)葉集』第七巻
月が欠けるとき船のような形になる。作者はそのような月を見(jiàn)ると、その和歌を作った。月の美しさと想像力がある和歌である。
3.まとめ
月は地球から一番近い衛(wèi)星である。人間が存在しない時(shí)代から地球を回っている?!喝f(wàn)葉集』の作者のように、人々が人間の感情あるいは気持ちを月に寄せると、月は美しいものや、悲しいものなどになる。夜の月は空人間世界を明るく照らだけでなく、人々の心も照らす。月は満ちれば欠けることもあるのように、人間は嬉しい時(shí)もあれば悲しい時(shí)もある。亡くなった人を悲しむ時(shí)、遠(yuǎn)方の友人を思う時(shí)、戀人を逢いたい時(shí)、月は唯一の友達(dá)になって、作者を慰める。そう見(jiàn)ると、『萬(wàn)葉集』も月も人間と強(qiáng)くつながるものである。人の生活に影響を與える。和歌は古代の人に作れた歌であるが、現(xiàn)代の人にとって理解しにくいものではない?!喝f(wàn)葉集』は日本で有名な和歌集で、作者は様々な人である。自然や四季や生き物などを詠んだ歌はたくさんある。月を詠んだ歌を一番好む。それらの理由で『萬(wàn)葉集』を選んだ。本稿で『萬(wàn)葉集』を中心に、和歌と月のつながりを分析した。日本の和歌に趣味がある人や月が好きな人に役立ちたい。
參考文獻(xiàn)
[1]汪南 古代和歌的“月”的美意識(shí)的研究——以「小倉(cāng)百人一首」為中心2006
[2]陶毅『源氏物語(yǔ)』「須磨」卷和歌中的月亮意向2013
[3]鄧云凌「中日古典詩(shī)歌意象比較」東方論壇(青島大學(xué)學(xué)報(bào))2004
[4]小林保治『あらすじで読む日本の古典』2004
[5]陶曷因「明月與朧月:中日詩(shī)歌的審美文化差異」東方叢刊2008
[6]萬(wàn)葉集の入門(mén)サイトである。http://www6.airnet.ne.jp/manyo/main/index.html
[7]意味:去年の秋に見(jiàn)た月は、今も明るく照らしているけれど、この月を一緒に見(jiàn)た私の妻は、離れて遠(yuǎn)くへ逝ってしまった。
[8]意味:月(つき)を見(jiàn)れば、あなたのいらっしゃるところと私のいるところは同じ國(guó)でと実感します。山こそがあなたのいらっしゃるところと、私のいるところを隔てているのである。
[9]意味:三日月がぼんやりとしか見(jiàn)えないで雲(yún)に隠れているようなあなたなので、(あなたに)逢いたくて仕方がない。いつもと違って、このころの私。
[10]意味:あの娘に逢いたいと思う気持ちは、夕闇に木陰からなかなか出てこない月を待つような気持ちである。
[11]意味:天にいらっしゃる月(つき)の神様、お供え物をいたすから、どうか、この夜がいつまでも長(zhǎng)く続きように。
[12]意味:天を行き、射てみようと、白真弓(しらまゆみ)を引いて隠れている、月よ。
[13]意味:雨が上がって清く輝いているこの月夜。また雲(yún)がたなびかないで欲しいな。
[14]意味:(海のように)広い空に雲(yún)が波立ち、月(つき)の舟が星(ほし)の林に漕ぎ入り隠れてゆくのが見(jiàn)える。