1.はじめに
談話分析という表現(xiàn)はdiscourse analysisの日本語訳として使われてきた。昨今の談話分析や談話研究の動(dòng)向を見ると、その領(lǐng)域の膨大さが印象に殘り、かかわる學(xué)問領(lǐng)域も多岐にわたる。言語學(xué)をはじめとして、応用言語學(xué)、言語心理學(xué)、コミュニケーション論、社會(huì)學(xué)、心理學(xué)、などと広範(fàn)囲に及んでいる。
日本語のスタイルは、従來敬語と関連しながら普通體·丁寧體として扱われきたことでも知れるように、社會(huì)言語學(xué)上の要素との関係で論じられてきた。しかし、実際、日常生活においては、スタイルは、年齢、地位、性別などの當(dāng)事者の背景や、目上·目下、また話し手と聞き手の性別関係など、コミュニケーションの場によってのみ決定されるのではない。また、一度選ばれたスタイルがずっと維持されるわけではなく、常にシフトしながらミックスされて使われることも周知の通りである。本稿では談話スタイルすなわち、ダ體とデス·マス體をめぐり、分析しながら、そのスタイルの選択と混用のことを考察してみよう。
2.ダ體とデス·マス體の選択
スタイルの選択は、基本的には相手を意識して正式に働きかけるか·かけないかという條件と、相手を近付きたいか·遠(yuǎn)くにいたいかという條件による。この(1)正式に相手に向けるか、(2)相手との距離を保持·拡大するかという二つの要素を用いて次のようなフローチャートができる。
3.ダ體とデス·マス體:スタイルシフトの表現(xiàn)性
談話例 100円のうどんを食べに行く
(1)100円のうどんを食べに行った。
(2)いいですか100円ですよ。
(3)一回の食事が100円で済むわけです。
(4)「フ-ン、そりゃよかったね」
(5)だって?
(6)どうも事情がよく飲み込めていないようだな。
(7)つまりです、晝飯を食いに行く。
(8)100円のうどんを食べる。
(9)堂々とヨージでシーハしながら店を出て行く。
(10)100円でこういうことができるわけです。
(11)「フ-ン、そりゃよかったね」
(12)あのねえ……いまどきねえ、例えばねえ、定食屋のライスだってねえ、200円なわけです。
(13)定食屋へ行ってライスだけ食べて、堂々とヨ-ジでシーハしながら店を出て行くことができますか。
(14)居酒屋の塩辛なんか、小さな皿にちょこっと入っていて300円はするわけです。
(15)居酒屋で塩辛だけ食べて、堂々とシーハしながら店を出て行けますか。
(16)新宿の西口、ヨドバシカメラのすぐ近くの讃岐うどんの店「はなまる」。
(17)かけうどんが一杯100円だという。
(18)しかもただの駄うどんではなく、今評判の讃岐うどん、それも香川県から直送しているうどんなのだ。
ここで、例示された談話例を観察してみよう?!?00円うどんを食べに行く」はダ體を基調(diào)としたスタイルで書かれている。談話例として抜粋された部分には、デス.マス體が使われるが、それは読者に積極的に働きかけ、あたかも読者ひとりひとりに話しかけているような書き手の態(tài)度を伝える時(shí)である。この差が明らかになるのが(1)「100円のうどんを食べに行った」と(2)「いいですか100円ですよ」である。(2)の「です」を使って、もっと丁寧になる。さらに(3)で「一回の食事が100円で済むわけです」と説明し、事実文である。(6)ではシフトして「どうも事情がよく飲み込めていないようだな」と半分自分に語りかけるようなダ體の表現(xiàn)となっている。
(7)の「食いに行く」、(8)の「食べる」、(9)の「出て行く」はダ體で、これらは(10)で「こういう」という指示表現(xiàn)でまとめられていることでも明らかなように、従屬的な文である。このため、デス·マス體は回避されていると言える。また、(12)で「あのねえ……いまどきねえ、例えばねえ、定食屋のライスだってねえ、200円なわけです?!工日h明し、(14)で「居酒屋の塩辛なんか、小さな皿にちょこっと入っていて300円はするわけです?!工日h明し、二つの文とも事実文である。(13)の「できますか」、(15)の「行けますか」はマス體を使って、相手に正式に働きかける気持ち或いは、話し手の尊敬の気持ちが表せると思われる。
また、相手に積極的に働きかけるかどうか、相手との距離を保持·拡大するかどうかという基本的な基準(zhǔn)で、次の雑誌記事「海岸」の例も、説明できる。
(1)初めて汐留に行った。(2)驚いた。(3)舊國鉄(現(xiàn)JR)跡地で、今再開発しているところだけど、勘弁してよ、JR。(4)なんだあ?(5)あの莫大な土地は。(6)こうやって、ある日突然出現(xiàn)する街っていうのがある。(7)始まりは恵比壽ガーデンプレイス。(8)あれはビール會(huì)社の土地だった。(9)それから麻布十番の大きな地下駐車場も、何年か前、行ったら突然あった気がする。(10)これは核シエルターも兼ねてるという噂。(...)
(11)はっきりいって私は政治に無関心です。(12)三十歳の大人として恥ずかしいくらい世の中のこと知りません。(13)というか信用してないのね。(14)子供のときから、大人を信用しない反社會(huì)派だったんだけど。
(15)「あんな大人になりたくない」
(16)と思って、警察につかまりながら育ちました。
(17)とにかく屈折してました。(18)でも今のほうがもっと屈折してるかも。(19)もう世の中、ウソだらけとさえ思う。(20)だから自分の目で見て、自分で感じて、自分で思わない限り信用しない。
(21)もしテレビのコンセントも抜けて、NTTがデメになったら……。(22)そしたら私たち、なんにも知らないで生きてるわけよ。(23)山奧に住んでる、何とか族の人たちは、今も戦爭が始まったことなんて知らずに生きてる、きっと。(24)何とか族は、自分で見たことしか信用しないはずだ。(25)そんなこと考えながら汐留ですよ。(26)新しい街ができて、日本の國が発展していくのは素?cái)长坤?、いいことだと思うの。?7)でも最近の東京では、新しい物ができるのは灣岸だけ。
このシリーズは全體的にはダ體を維持しているが、デス·マス體の表現(xiàn)は読者に向けて、説明、弁明する態(tài)度を伝えている。(11)と(12)の「無関心です」、「知りません」は、書き手が意識して読者に向けて弁明する表現(xiàn)意図がある。この部分は、コミュニケーションの意図がより公的で多數(shù)の人に向けるもので宣言的である。特に、(11)と(12)は談話構(gòu)造上からも、書き手が意識して暴露する情報(bào)で、中心文となり、デス·マス體になっている。
(13)と(14)では情意のダ體で、書き手は自分の誰も、何も信用しない気持ちが表せて、自分の思うことを直接に伝える態(tài)度にシフトしている。(13)と(14)は、(11)と(12)で維持される意見に従屬していて、関連した情報(bào)を付け加える?!袱趣いΔ工趣いΡ憩F(xiàn)が使われていることでも、後ろに続く部分は自分の本音を直接に言える。
(16)はその辺りの事情をまとめる主節(jié)的な文となっていて、公的、多數(shù)の人に向ける話しであって、デス·マス體になっている。再びデス·マス體にシフトする。(25)の「そんなこと考えながら汐留ですよ」は書き手がトピックをコントロールするために、ここで話しを本に戻すもので、相手を意識した表現(xiàn)となる。
4.終わりに
以上、談話におけるダ體とデス·マス體の選択と混用することをめぐって分析してきた。従來の研究では、ともすればダ體とデス·マス體の違いは、社會(huì)言語學(xué)的な要素や會(huì)話の場面などによって決まるとされがちであった。しかし、スタイルの選択は、社會(huì)慣例に違反することによって効果を生み出す場合もあり、むしろ、社會(huì)に慣例を個(gè)人意志との間の葛藤の結(jié)果として、選択されることが多い。スタイルの選択とそのシフトが、そのような社會(huì)的な要因のみならず、むしろ、話し手が、(1)正式に相手に向けるか、(2)相手の距離を保持·拡大するかというどちらかというと心理的·心情的な要素によって決まることを論じた。これから、感情のゆれとスタイルシフトとの関係を詳しく考察していきたいと考えている。
參考文獻(xiàn)
[1]泉子·K·メイナード.『會(huì)話分析』.くろしお出版,1993年
[2]泉子·K·メイナード.『談話言語學(xué)』.くろしお出版,2004年
[3]小泉保.『入門 語用論研究』.研究社,2001年
[4]津田旱苗.『談話分析と文化比較』.リーぺル出版,1999年
[5]ジェニー·トマス.『語用論入門』.研究社出版,1999年
作者簡介:
楊雪(1983—),女,漢族,吉林長春人,講師,碩士,主要從事日語語言文學(xué)研究。
(作者單位:大連交通大學(xué)外國語學(xué)院日語系)