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      初級(jí)中國(guó)語學(xué)習(xí)者における文法と発音の誤用に関する考察

      2019-03-08 02:50:48白煜
      西部論叢 2019年4期
      關(guān)鍵詞:結(jié)果文法意味

      一、自由な発話を目指して

      現(xiàn)在、日本の第二外中國(guó)語教育において、學(xué)習(xí)者を中心としたコミュニケーションや會(huì)話能力の育成を目指した授業(yè)を行うべきであるという意見を中國(guó)語教育に攜わる様々な場(chǎng)で耳にするようになった(筆者が2016年から2017年に関西地區(qū)と北陸地域の中國(guó)語學(xué)習(xí)者を?qū)澫螭趣筏空{(diào)査でも、學(xué)習(xí)者の7割以上が會(huì)話を中心とした中國(guó)語を?qū)Wびたいという結(jié)果が出ている。

      しかし、日本の大學(xué)における第二外中國(guó)語教育は、実質(zhì)的には週2回、1年間を通し、でわずか90時(shí)間しかない(大學(xué)や學(xué)年によっては週1回しかないところもある)。このような限られた授業(yè)時(shí)間の中で、文法や発音の規(guī)則に沿って會(huì)話を中心にした授業(yè)を行ったとしても、ほとんどの學(xué)習(xí)者にとって、中國(guó)語を通してコミュニケーションをすることなど不可能に近いものがある。その結(jié)果、1年間、中國(guó)語を勉強(qiáng)したとしても、規(guī)則的な文法や発音どころか、簡(jiǎn)単な會(huì)話でさえもできない學(xué)習(xí)者が多く存在することになってしまうというのが現(xiàn)狀である。

      実際、限られた第二外中國(guó)語の授業(yè)時(shí)間の中で、學(xué)習(xí)者は情報(bào)を詰め込むかのように新しい文法や語彙をインプットし、これまで學(xué)んできたことをアウトプットすることを強(qiáng)いられる。その結(jié)果、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の中國(guó)語の學(xué)習(xí)に対し、興味が湧かないまま1年~2年という學(xué)習(xí)期間が過ぎ去り、挫折することも多くみられた。もちろん、語學(xué)を?qū)Wぶ過程の中で、規(guī)則的な文法の學(xué)習(xí)や発音を?qū)Wぶことを避けて通ることはできない。しかし、現(xiàn)在の第二外中國(guó)教育の現(xiàn)狀を変えるには、外國(guó)語を通して自分のこと伝えることに楽しみを見出すこと、すなわち規(guī)則的な文法や発音に捉われるのではなく、誤用することを恐れず、自分のことを積極的に発信するという點(diǎn)に、授業(yè)の目標(biāo)をシフトすることが必要ではないだろうか。

      これまでも、様々な角度から日本語母語話者が中國(guó)語を?qū)Wぶ際に苦手としている文法や発音に関する研究がなされ、教師も學(xué)習(xí)者の誤用に対し多くの注意や指摘を行ってきた。しかし、実際に學(xué)習(xí)者が苦手としている文法や発音の誤用に対し、中國(guó)語母語話者はどのように捉えているのか、これまで調(diào)査や研究が行われることはなかった。 そこで、本論では大學(xué)の中國(guó)語I、中國(guó)語IIの授業(yè)で得た日本語母語話者の文法および発音における誤用をデータとして収集し、それを中國(guó)語母語話者に提示した上でそれらの誤りに対し、コミュニケーションに支障があるか否か、考察を行った。今回の調(diào)査の結(jié)果を通し、今後の第二外中國(guó)語教育に関し、次の3點(diǎn)を?qū)g現(xiàn)できるきっかけとしたい。

      (1)これまでの第二外中國(guó)語教育で見られてきたように、限られた授業(yè)環(huán)境や授業(yè)時(shí)間のもとで、規(guī)則的な文法や発音を第一としてきた教育、あるいは指導(dǎo)の方向性を見直す。

      (2)第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の文法や発音に関する學(xué)習(xí)の苦手意識(shí)や恐怖心をできるだけなくす、または克服させる。

      (3)規(guī)則的な文法や発音規(guī)則に縛られず、または必要以上に意識(shí)せず、積極的に學(xué)習(xí)者に自己表現(xiàn)のためのアウトプットをさせていく環(huán)境づくりを大事にする。

      二、文法における誤用

      本調(diào)査で使用するデータは、実際に初級(jí)中國(guó)語の授業(yè)で得た72名の學(xué)習(xí)者によるもので、それぞれ了,把,會(huì)と能、そして個(gè)(量詞)に関する誤用表現(xiàn)である。これらの文法は、筆者が擔(dān)當(dāng)する第二外中國(guó)語でもよく誤用のみられる文法事項(xiàng)であるため、今回の調(diào)査は、この5つの文法誤用に特化したものを選んだ。また、今回、調(diào)査で使われる日本語母語話者の誤用表現(xiàn)のある文はすべて文法に誤用があるもの、または、表現(xiàn)的に不自然さが感じられるものである。これらの誤用表現(xiàn)を項(xiàng)目ごとに分け、中國(guó)に在住している中國(guó)語母語話者180名にみせた。日本ではなく、中國(guó)に在住している中國(guó)語母語話者を?qū)澫螭趣筏坷碛嗓?、一般的に彼らは日本語を?qū)Wんでいない。したがって、文法誤用のある中國(guó)語の文が理解できるものであるかを判斷する際、日本語の文法構(gòu)造で認(rèn)識(shí)しないため、意味が通じるかどうかという基準(zhǔn)がより明確で正確なものとなるのではないかと考えた。そして、文法上に誤用がみられる了、把、會(huì)、能、個(gè)(量詞)が、次の項(xiàng)目のA~Cのどの項(xiàng)目に當(dāng)てはまるか回答してもらい、初級(jí)學(xué)習(xí)者が書いたこれらの誤用表現(xiàn)を理解できるかどうか、また通じるかどうかを考察した(なお、質(zhì)問の回答に答えてくれた中國(guó)語母語話者には、調(diào)査で扱った日本の初級(jí)學(xué)習(xí)者による誤用表現(xiàn)は、文法上の誤用があるものであることは伝えていない)。

      A 表現(xiàn)的に理解でき、かつ文法的にも正しい。

      B 表現(xiàn)的には不自然ではあるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じる。

      C 表現(xiàn)的にも不自然さがあり、文法的にも誤用がみられ、且つ意味も通じない。

      今回の調(diào)査の目的は、この180名の中國(guó)語母語話者の回答により、日本の第二外中國(guó)語教育において、文法の規(guī)則に則った外國(guó)語教育は必須であるという考え方を今一度見直すためである。文法上に誤用があっても、実際には中國(guó)語母語話者には意味が通じ、自然にコミュニケーションを行う上で支障はないと考えられる観點(diǎn)を強(qiáng)く位置づける根拠としたい。

      (一)了における誤用について

      まず、初級(jí)で習(xí)う了から誤用表現(xiàn)が挙げられる。以下の誤用は実際に授業(yè)で得られた誤用例であり、72名の中國(guó)語學(xué)習(xí)者の調(diào)査に基づくデータである。

      (1)*聽他的話,母親感動(dòng)地流淚了。

      A.40% B.73% C.10%

      (2)*才換襯衣又臟了。

      A.40% B.56% C.4%

      (3) *吃這個(gè)漢堡我們?cè)倮^續(xù)討論吧。

      A.11.9% B.80.5%C.7.6%

      (4) *我聽見了有人說了話。

      A.18.6% B.75.4% C.5.9%

      (5) *在車站我看見了有乘客插了隊(duì)。

      A.32.2% B.66.9 C.0.8%

      (6) *去年冬天為了預(yù)防感冒,我每天喝了姜湯。

      A.12.7% B.85.6% C.1.7%

      (7) *小學(xué)的時(shí)候我天天聽了英文廣播。

      A.7.6% B.90.7% C.1.7%

      (8) *小時(shí)候他的體質(zhì)不好,所以經(jīng)常感冒了。

      A.20.3%B.77.1% C.2.5%

      (9) *10年前這個(gè)公園在日本很有名,因?yàn)橐坏酱禾?,常常能看到了櫻花?/p>

      A.9.3% B.79.7% C.11%

      (10) *一年前我去北京留學(xué)的時(shí)候,經(jīng)常吃了北京烤鴨。

      A.6.8%B.87.3% C.5.9%

      (二)了における誤用についての分析

      了の誤用表現(xiàn)に関して大まかに(1)から(3)、そして(4)から(10)までに分けることができる。まず(1)から(3)に分けられるものは、最初の動(dòng)詞の動(dòng)作が完了してから、第二の動(dòng)詞の動(dòng)作)が発生する誤用①の文である。

      (1) *聽他的話,母親感動(dòng)地流淚了を例に例えると、最初の(動(dòng)詞の動(dòng)作)である、聽他的話の聽が、実現(xiàn)·完了してから初めて第二の動(dòng)詞の動(dòng)作である、母親感動(dòng)地流淚了の流淚了が発生するのである。すなわち、聽他的話(彼の話を聞いてから)、母親感動(dòng)地流淚了(母は感動(dòng)して涙を流した)となるのだ。

      誤用(3)の場(chǎng)合、*吃這個(gè)漢堡我們?cè)倮^續(xù)討論吧(このハンバーグを食べ終えた後、私たちは引き続き討論しましょうという意味になる)が(3)の場(chǎng)合、最初の動(dòng)作にあたる吃の後に動(dòng)作の了が入っていない。

      誤用②の(4) *我聽見了有人說了話と(5) *在車站我看見了有乘客插了隊(duì)はいずれも了を必要としない文である。これは、主部の動(dòng)詞である聽見了(聞こえたと看見了(見た)が既に節(jié)內(nèi)の說話と看見が実現(xiàn)済みであることを含意しているためである。

      誤用パターン③は(6) *去年冬天為了預(yù)防感冒,我每天喝了姜湯から(10) *一年前我去北京留學(xué)的時(shí)候,經(jīng)常吃了北京烤鴨。である。

      これは、了がいらないという點(diǎn)に関しては、パターン②と共通していることであるが特徴としてあげられるのが、いずれも狀語(例えば(6)の場(chǎng)合は、文中の中の去年)が既に過去の出來事であることを表しているため、完了の了は必要ないのである。

      このように、了における誤用表現(xiàn)は調(diào)査結(jié)果から見ると、(2)のB.56%を除き、(1)、(3)から (10)を含め、すべての誤用例においてB表現(xiàn)的には不自然であるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じる?と考える中國(guó)語母語話者の割合がほぼ70%以上であることが分かる。さらに(7)「*小學(xué)的時(shí)候我天天聽了英文廣播に関しては90%以上、すなわち、回答してくれた180人中、ほぼすべての中國(guó)語母語話者が B表現(xiàn)的には不自然であるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じると感じている。

      もうひとつの特徴としては、次のようなものが挙げられる。(1)~(10)までは本來、文法的に誤用がある文にも関わらず、(8)*10年前這個(gè)公園在日本很有名,因?yàn)橐坏酱禾欤3D芸吹搅藱鸦à虺?、すべての誤用表現(xiàn)をC表現(xiàn)的にも不自然さがあり、文法的にも誤用が見られると考える中國(guó)語母語話者の割合は少なく、むしろ、A表現(xiàn)的に理解でき、文法的にも正しい?と考える中國(guó)語母語話者の方が上回っている。すなわち、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の誤用表現(xiàn)は、中國(guó)語母語話者でも指摘されなければ気づかないことがあるということだ。

      (三)「把における誤用について

      授業(yè)の際、把に関して、多くの學(xué)習(xí)者が間違えやすい誤用がみられる。把をつけることによって狀況や結(jié)果狀態(tài)を表すため、通常は好、完、成、到在などの実質(zhì)的な結(jié)果補(bǔ)語をつけることが一般的である。

      (1) *我的父親是大夫。他把我的病治了。

      A.35.6% B.57.5 % C.6.8%

      (2) *你離開這兒的時(shí)候把門關(guān)。

      A.9.6% B.82.7% C.8.2%

      (3) *哥哥把剛買的新衣服穿了。

      A 39.7% B.53.4% C.6.8%

      (4) *來客人了,所以媽媽把茶倒了。

      A.12.3% B.56.2% C.31.5%

      (5) *我把今天剛上映的電影看了。

      A.49.3% B 47.9% C.2.7%

      (6) *老師把大豆做豆腐了。

      A.28.8% B.64.4% C.6.8%

      (7)*我想把這束玫瑰花送愛人。

      A.23.3% B.71.2% C.5.5%

      (8) *我把房間應(yīng)該收拾收拾。

      A.12.3% B.82.2% C.5.5%

      (9) *你把手套要放在哪兒?jiǎn)幔?/p>

      A.15.1% B.53.4% C.31.5%

      (10) *臺(tái)風(fēng)把傘沒刮壞

      A.12.3% B.76.7% C.11%

      (11) *今天我把花兒想送我奶奶家

      A.24.7% B. 72.6% C.2.7%

      (四)把における誤用についての分析

      把の誤用表現(xiàn)を考察すると、誤用表現(xiàn)の種類は次の誤用①、誤用②、誤用③に分けることができる。まず誤用①、すなわち(1)から(7)まではみられる誤用はすべて、本來、結(jié)果補(bǔ)語を補(bǔ)わなければいけない表現(xiàn)であるため、本來であれば(1)治好了 治療した(2)關(guān)好 しっかりと閉める(3)穿上了 著た、などのようになる。

      誤用②の(8)から(10)は、文の位置に誤用が見られる例である。通常、助動(dòng)詞は述語動(dòng)詞の前ではなく把の前に置かなければならない。従って、例として(8)も*我把房間應(yīng)該收拾收拾ではなく、本來は、我應(yīng)該把房間收拾收拾としなければならないのである。(10)は、否定形の文の誤用であるが、上記で述べた助動(dòng)詞の他に、否定を表す副詞沒も把の前に置く必要がある。

      誤用③は、助動(dòng)詞の想と、結(jié)果補(bǔ)語の送給の両方が抜け落ちているという両方の問題が見られる。

      以上のように文の中の把における結(jié)果補(bǔ)語が抜けていたり把に対する助

      動(dòng)詞の位置の問題がみられても、(1)から(11)のすべての誤用例を通して、B 表現(xiàn)的には不自然ではあるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じると答えた中國(guó)語母語話者の割合が一番高く、実際には、コミュニケーションや意味を伝達(dá)する上で、影響が少ないということが分かる。

      しかし、(4)だけ*來客人了,所以媽媽把茶倒把了。だけは、本來、滿という結(jié)果補(bǔ)語を入れることで、お客様が來たので、お母さんはお茶を一杯いれた。という意味となるはずである。しかし滿という結(jié)果補(bǔ)語を入れていないため、茶倒了(お茶を捨てた)という意味になってしまった。それによりに、前文の來客人了と後文の所以媽媽把茶倒了の意味がお客様が來たため、お母さんはお茶を捨てたという意味になり、結(jié)果的に前文と後文において意味的な繋がりが分かりにくいものとなった。その結(jié)果、C.表現(xiàn)的にも不自然さがあり、文法的にも誤用がみられ、且つ意味も通じないと考えられる割合が31.5%と他の誤用例と比べ比較的高いものとなった。

      (五)會(huì)と能における誤用について

      この2つの語彙は、共に初級(jí)中國(guó)語でよく使われる語彙であり、両方とも可能であることを表す助動(dòng)詞であり、日本語に訳した際、どちらもできるという意味に訳すため、初級(jí)中國(guó)語學(xué)習(xí)者はどちらを使うのか比較的難しいと感じることが多い表現(xiàn)でもある。通常、會(huì)の方は、目に見えてできることが表現(xiàn)できるときに使われることが多く、練習(xí)や勉強(qiáng)の末に獲得し、できるようになったということを表すのに対し、能は身體や環(huán)境條件が備わっていることで所有している能力であることを表すことが多い。

      (1) *你在大海會(huì)游四百米嗎?

      A.8.2% B.64.4% C.27.1%

      (2) *他會(huì)跑100公里。

      A.18.6% B. 47.5% C.33.9%

      (3)*你好好休息吧我能每天去看你

      A.27.1% B.55.9% C.16.9%

      (4)*不洗手不會(huì)吃甜點(diǎn)。

      A.16.9% B. 52.5% C.30.5%

      (5)*我用漢語會(huì)聊一個(gè)多小時(shí)。

      A.18.6% B.61% C.20.3%

      (6) *你酒量大, 會(huì)喝就多喝一點(diǎn)兒。

      A.55.9% B.39% C.5.1%

      (六)會(huì)と能における誤用についての分析

      (1)*你在大海會(huì)游四百米嗎?(2)*他會(huì)跑100公里は、練習(xí)や訓(xùn)練を得て、泳げるようになった、あるいは走れるようになったという技術(shù)を習(xí)得したことを表したいため、ここでは、どちらも會(huì)が使われている。しかし、基本的技能を習(xí)得したことに対し、習(xí)得度を更に表現(xiàn)したい時(shí)は、會(huì)ではなく、能を使うことが一般的となる。したがって、(1)は、你在大海能游四百米嗎? (2)他能跑100公里ということになる。(3)*你好好休息吧我能每天去看你の能はできるということを表す他に、將來の予測(cè)を表すが、第三者から見たような客観的な予測(cè)を表すのに使うことが多い。例えば、刮這么大的風(fēng)她能來嗎?(こんなに風(fēng)が強(qiáng)いのに、彼女は來るのだろうか)、の使い方ができ、それに対し會(huì)は実現(xiàn)の可能性をより主観的に表し、肯定する場(chǎng)合に使われることが多い。そのため(3)は、你好好休息吧我每天會(huì)去看你(ゆっくり休んで下さい。私は毎日あなたを見舞いに行きます)となる。

      (4)は*不洗手不會(huì)吃甜點(diǎn)。(手を洗わなければ、デザートを食べてはいけない)という食べることが可能かどうかを聞いているため會(huì)ではなく能となる。

      (5)は*我用漢語會(huì)聊一個(gè)多小時(shí) (6) *你酒量大, 會(huì)喝就多喝一點(diǎn)兒(あなたはお酒

      が飲めるから、飲めるだけもっと飲みなさい)はどちらも、話せる時(shí)間が長(zhǎng)いこと、飲むことができる量が多いという能力的なことを表しているため、會(huì)を使う代わりに能を使う必要がある。

      この中でも特徴的なものは(6)*你酒量大, 會(huì)喝就多喝一點(diǎn)は、誤用のある表現(xiàn)にも関わらず、A55.9% という最も高い割合で、全體の半分以上の中國(guó)語母語話者が表現(xiàn)的に理解でき、文法的にも正しいと考えている。

      本來、お酒を飲むという中國(guó)語は、能喝酒お酒が飲めるという能力的なことを指す言い方と會(huì)喝酒、(お酒の量に関わらず、お酒をどれほど飲んでも味わって楽しみながら、飲めること)を指すため、単にお酒を飲むという短い文であれば、能と會(huì)どちらとも正解となる。この文では、前文で*你酒量大と量のことを述べているため、會(huì)ではなく、能力そのものを表す能が正解となる。

      (七)量詞における誤用について

      (1) *我有一個(gè)眼鏡。

      A.57.6% B.40.7% C.1.7%

      (2) *日本有好幾個(gè)森林。

      A.55.9% B.35.5% C.13.6%

      (3) *我家有一個(gè)可愛的貓

      A. 57.2% B.37.2% C.5.6%

      (4) *你有幾個(gè)漢語字典?

      A.50.4% B.39.1% C.10.5%

      (5) *你有幾個(gè)筆?

      A.58.1% B.34.9% C.7%

      (6) *我剛才打了一回哈氣。

      A.21.9% B.64.4% C.13.7%

      (7) *我給你打一回電話方便嗎? 一が省略されている

      A 4.1% B 53.4% C.42.5%

      (八)量詞における誤用分析について

      これまでの誤用表現(xiàn)と比べ、明らかに異なる點(diǎn)が見られる。(1)から(5)までのすべての量詞の誤用表現(xiàn)に対し、半數(shù)以上の中國(guó)語母語話者A表現(xiàn)的に理解でき、文法的にも正しいと捉えている。日常生活の中において、使用する頻度が高いと考えられる量詞は個(gè)である。例として、一人、二人とヒトを數(shù)える時(shí)も(一個(gè)人,兩個(gè)人)、ひとつのコップ、二つのコップなどの物に対する量詞も(一個(gè)杯子,兩個(gè)杯子)という。そのため、対象となるものの量詞が曖昧だと感じた場(chǎng)合、無意識(shí)のうちに、文法的に正しい量詞よりも直接個(gè)を使う傾向が強(qiáng)いと推測(cè)できる。

      特徴的な例として、(6)*我給你打一回電話方便嗎? である。これは、中國(guó)語母語話者がB?表現(xiàn)的には不自然ではあるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じる?が53.4% と比較的高い割合で選択されている。

      日本語では一度お電話をさしあげてもよろしいでしょうかという電話を掛けなおす際の決まり文句がある。したがって、中國(guó)語で一度お電話してよろしいでしょうかという文を見ると、直感的に一度の量詞が日本語では一回という中國(guó)語に訳せると認(rèn)識(shí)してしまうため(6)の誤用が生じると考えられる。

      また、中國(guó)語では一般的に文中の數(shù)詞一は通常、省略することが多い。そのため*我給你打一回電話方便嗎?という文は、數(shù)詞の一が省略された後,量詞が個(gè)に変わるため、我給你打個(gè)電話方便嗎という文になる。しかし誤用のままの

      *我給你打一回電話方便嗎?という文でも、量詞に違和感はあるが、意味は通じるため、Bの表現(xiàn)的には不自然ではあるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じるの比率が高かったといえる。

      (九)文法誤用に関するまとめ

      本章の文法編では、文法的に正しいかということではなく、文法が規(guī)則的に正しくなくても相手に伝わるのか、通じるのかということに主點(diǎn)をあて、その結(jié)果を考察したことにより、いくつか新しい発見を得ることができた。

      まず、了把會(huì)能個(gè)(量詞)、そして、様々な數(shù)量を表す語句の誤用表現(xiàn)のすべてに関して、文法的な間違いがあったとしても、中國(guó)語母語話者は全體的に、B表現(xiàn)的に不自然であるが、文法規(guī)則に沿っているか否かに関係なく意味は通じるを選択する傾向が強(qiáng)くみられた。これは、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者がコミュニケーションの際、規(guī)則的な文法に沿っていない中國(guó)語であったとしてもコミュニケーションを行う上で支障はなく、意思伝達(dá)ができており、意味が通じているということを示しているということである。

      次に、誤用がある表現(xiàn)でも意味的に通じるものであれば、中國(guó)語母語話者は、Cの表現(xiàn)的にも不自然さがあり、文法的にも誤用がみられ、且つ意味も通じないより、むしろA表現(xiàn)的に理解でき、かつ文法的にも正しいの方を選択していることが多い。また、誤用表現(xiàn)によっては、中國(guó)語母話者であっても文法的にも間違いではないと考える例もあった。多くの中國(guó)語學(xué)習(xí)者が、日本語母語話者の誤用をみても表現(xiàn)的には理解でき、コミュニケーションを行う上では問題がないと感じていることが読み取れる。本章の文法編の調(diào)査により、文法上の規(guī)則に誤用があっても、実際には中國(guó)語でアウトプットをすること、中國(guó)語母語話者とコミュニケーションする際でも、大きな支障となることはないという筆者の観點(diǎn)を裏付けるものではないだろうか。

      実際、わたしたちが第二言語教育の指導(dǎo)や習(xí)得に攜わっていく過程の中で、目標(biāo)言語に対し不足感を抱く學(xué)習(xí)者を多くみる。[1]陸は、學(xué)習(xí)者は日本語教育の授業(yè)の際、文法や発音に関する規(guī)則、あるいは形式のこだわり意識(shí)を強(qiáng)く持っており、話す時(shí)、書くときに常に自分の話している日本語が文法に合っているかどうかに捉われて、自由に言いたいことを言えない狀態(tài)になってしまうことがあると指摘している。ここでいう形式のこだわり意識(shí)とは、ある言語を第二言語として學(xué)習(xí)する際、文法的に正しいかどうかに、または発音の規(guī)則に拘泥する意識(shí)を指す。

      自己表現(xiàn)や意思伝達(dá)を行う際の文法構(gòu)造の正確性については、筆者は形式のこだわりに意識(shí)を向けさせるがあまり、それが原因となり自己表現(xiàn)のためのアウトプットに影響を與えることはよくないと考えている。歴史的な教授法変遷の中で、文法翻訳法やオーディオ·リンガル法から、コミュニカティブ·アプローチが開発されたように、どれほど文法や文型など知識(shí)の量をストックしても自己表現(xiàn)の向上には簡(jiǎn)単には結(jié)びつかないのである。

      わたしたちは、言語構(gòu)造や発音の規(guī)則だけを通して意思伝達(dá)をしているわけではなく、言葉の前後の文脈や表情、雰囲気や環(huán)境など様々な要素の中で、コミュニケーションを行っている。したがって形式の多少の間違いは、自己表現(xiàn)を行う上で大きな問題にはならない。これからの第二中國(guó)語教育においては、形式へのこだわりの意識(shí)から學(xué)習(xí)者を解放させ、自己表現(xiàn)させる指導(dǎo)や環(huán)境づくりがますます重要となる。

      だが、これは、學(xué)習(xí)者に文法上において間違った誤用を起こしても、指導(dǎo)をしてはいけないという観點(diǎn)を支持するものではない。週2回、1年を通し90時(shí)間しか授業(yè)時(shí)間のない學(xué)習(xí)者に対し、行き過ぎた文法指導(dǎo)はアウトプットさせる上でメリットがない。何よりも、學(xué)習(xí)者のアウトプットを積極的に進(jìn)めることに重點(diǎn)を置くことこそが重要ではないだろうか。

      三、発音における誤用

      前節(jié)により、文法上の誤用があっても実際に中國(guó)語でアウトプットしたり、コミュニケーションを行う上で、大きな弊害(支障)はみられないという點(diǎn)を確認(rèn)できた。それでは、発音に関してはどうであろうか。朱川(1997)の日本人留學(xué)生を?qū)澫螭趣筏垦芯郡扦?、日本人留學(xué)生の靜態(tài)的な聲調(diào)には、例として次のような特徴がみられるという。

      (1)第一聲に関する誤用數(shù)は非常に少ない。先行研究では、第一単音節(jié)による第一聲の誤用は少ないが、多音節(jié)になると、初級(jí)者に関しては誤用も増えてくる傾向が見られる。

      (2)誤用數(shù)がいちばん多いのは第二聲と第三聲であり、第二聲を平らな聲調(diào)や上がりがあまりない聲調(diào)に発音してしまう傾向が強(qiáng)い。また第二聲を第三聲に近い聲調(diào)に発音してしまう傾向がみられる。

      (3)第四聲の誤用は第二聲や第三聲より少ないが、第四聲を平らな聲調(diào)に発音してしまう傾向がある。

      (4)雙音節(jié)における?yún)g字音と単字音の間に一定のポーズをいれる傾向がある。

      このように、日本語母語話者がどの聲調(diào)を苦手としているのかという現(xiàn)狀を知ることは非常に重要である。しかし、前述の通り、日本の第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者は、共通科目であるために授業(yè)時(shí)間が少なく、聲調(diào)の誤用を修正するための時(shí)間が多くなると學(xué)習(xí)者の中國(guó)語に対するモチベーションを下げる原因となる。

      そこで、筆者は、聲調(diào)誤用のある?yún)g語を例文に入れ、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者が読んだものを中國(guó)語母語話者に聴かせた。どこまで聞き取れるか、會(huì)話によるアウトプットをする際、コミュニケーション上、支障があるかどうか調(diào)査を行った。この調(diào)査の結(jié)果により、聲調(diào)に多少誤用があったとしても、意味が理解でき、意思伝達(dá)をすることができるという、筆者の観點(diǎn)を支持することができるのではなかと考える。また、調(diào)査の結(jié)果により、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の聲調(diào)に関する指導(dǎo)法にも改善が期待できるのではないかと考える。

      (一)発音の誤用に関する調(diào)査

      筆者が現(xiàn)在擔(dān)當(dāng)している、第二外中國(guó)語の授業(yè)の中でランダムに、中國(guó)語の発音に関する調(diào)査を行った。

      まず、學(xué)習(xí)者の誤用が多く見られる?yún)g語を選び、それを誤用のある聲調(diào)のままで、例文にあてはめたものを日本語母語話者に読ませた。それを録音した上で中國(guó)語母語話者58名に聴かせた?;卮黏芜x択肢は、A意味が通じる、B意味が通じないの2種類とした。

      使用した単語は、現(xiàn)在筆者が授業(yè)で使用している教材STAND COURSE―中國(guó)語の世界標(biāo)準(zhǔn)テキスト―入門レベル、STAND COURSE―中國(guó)語の世界標(biāo)準(zhǔn)テキスト初級(jí)レベル(北京語言大學(xué)出版社)から抜粋した。

      また、この誤用のあった単語をそのままではなく、例文の中に組み込み、中國(guó)語母語話者に聴かせた理由は、1つの文章として伝えた方が、コミュニケーションの際、會(huì)話文として成り立つのではないかと考えたためである。誤用のある語彙の聲調(diào)と例文は、下記の表1~表3の通りである。

      まず、筆者が調(diào)査した結(jié)果、初級(jí)中國(guó)語學(xué)習(xí)者が苦手な一音節(jié)は次の聲母が最も多いことが分かった。それを二音節(jié)でテストを行った結(jié)果、次の1~15の項(xiàng)目の中で、學(xué)習(xí)者が発音しがちな聲調(diào)をデータとして、採(cǎi)取したのが表1~表3の①~③である。また、その聲調(diào)を中國(guó)語母語話者に実際に聞かせ、誤用のある発音や聲調(diào)が通じるのか調(diào)査を行った。

      (二)聲調(diào)において誤用のある表現(xiàn)の分析結(jié)果

      以下は中國(guó)語母語話者に直接誤用を聴かせた調(diào)査の結(jié)果となる。

      (1) 旅游3+2 lǚ yóu 我明天去北海道旅游。私は明日、北海道へ旅行へ行く。

      3+2 旅游 lǚ yóuでみられる誤用の発音は、次の① 3+3liǔ yǒu、②2+2 lǘ yóu、③3+2 yǚ yóuとなるが、すべての聲調(diào)の誤用に関して、70%以上の中國(guó)語母語話者が意味が通じ、理解できると答えている。①のliǔ yǒuと③yǚ yóuに関しては、聲調(diào)は三聲であっているがピンインに誤用がみられる。しかし、それでも文章として読んだとき、70%と72%と高い割合で、意味を理解し、通じている學(xué)習(xí)者が占めているといえる。誤用している音でも、全文を読んでいるため、それを聞いた中國(guó)語母語話者が意味は通じると答えている。また、1つの語彙としてピンインを誤用しても書けるが、それぞれの単語を別々にすると、聲母を書くことができない學(xué)習(xí)者が多くみられる。すなわち第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者は、聲母やイン母を覚えていない。授業(yè)時(shí)間數(shù)が少ないため、発音、語彙、文法も會(huì)話もバランスよくやることが難しいと考える學(xué)習(xí)者もいるため、やはり何らかの形で授業(yè)の現(xiàn)狀を考える必要がある。

      (2)2+1 房間fáng jiān 我的房間號(hào)是301 私の部屋の番號(hào)は301です。

      ①~③に関しては、98%とほぼ100%で、第一音節(jié)の聲母(この場(chǎng)合はf)とその聲調(diào)が正解である場(chǎng)合、第二音節(jié)のピンインの聲調(diào)(この場(chǎng)合はchiān)に誤用があっても高い確率で意味が通じるとみられる。③も①と同様に、第一音聲の聲母がfであるため、第二音節(jié)の聲調(diào)(qiān)や(jiān)に誤用があっても高い割合で中國(guó)語母語話者が意味を理解できると答えている。

      (3)1+2 非常 fēi cháng我非常喜歡日本 私は非常に日本の生活が好きだ。

      これまでの先行研究によると、中國(guó)語母語話者は、第二聲と第三聲を誤用してしまう傾向がよくあることがみられる。筆者の今回の調(diào)査でもその點(diǎn)に関しては、共通してみられるものである非常の①でも同じようにことがいえる、すなわち、第二音節(jié)の漢字が、本來は、二聲(cháng)であるが、ここでは、三聲(chǎng)の誤用になっているといえる。しかし、それでも82%という高い割合で、中國(guó)語母語話者が意味を理解している。

      ②の非常の聲調(diào)誤用に関しても、興味深い特徴をいくつか発見することができる。これまでの先行研究では、1聲は聲調(diào)を聞き間違えたり、誤用する傾向が非常に少ない聲調(diào)であるといわれている。しかし、ここでは、第一音節(jié)の聲母の聲調(diào)(f)を第一聲から、第二聲に誤用していることが分かる。しかし、意味が通じる割合が80%以上と非常に高い。③の非常の聲調(diào)誤用に関しても、日本語母語話者が、本來、第一音節(jié)の聲母を第四聲に、また、本來第二聲の第二音節(jié)を三聲に誤用している。しかし、この誤用に関しても、中國(guó)語母語話者は74%で意味を理解している。また、非常の誤用においても①~③の聲調(diào)誤用を通して言えることは、第一音節(jié)と第二音節(jié)において、それぞれ誤用はみられるが、それでも、第一音節(jié)の聲母において、誤用がみられないため、意味が伝わる確率が高いといえる。

      (4) 經(jīng)常jīn chǎng 他(經(jīng)常)去美國(guó) 彼はよくアメリカに行く

      本來の聲調(diào)は經(jīng)常jīn chǎngと一音節(jié)が一聲、二音節(jié)が三聲となる。しかし、②と③と両方で、第一音節(jié)が第二聲の誤用がみられる。また、第二音節(jié)のchanは本來、二音節(jié)であるが聲調(diào)誤用③では、第三聲に聞こえる學(xué)習(xí)者も見られる。ここでも日本語母語話者が二聲を三聲に聞こえてしまう學(xué)習(xí)者が多くいることが分かる。

      (5)2+4 :紅色 hóng sè 我最喜歡的顏色是紅色私が好きな色は赤です。

      ここでは、発音に関する誤用に3パターンがみられる。

      (1)聲調(diào)誤用①に関して、第一音節(jié)のピンインは正確であるが、聲調(diào)に誤用が見られる。一方で、第二音節(jié)はピンインと聲調(diào)がすべて正解であるため正解率は高い。

      (2)聲調(diào)誤用②に関して、第一音節(jié)は正解である。第二音節(jié)の聲調(diào)は合っているが、逆にピンインに誤用がみられる。このような結(jié)果から、ピンインに多少誤用があっても、通じると感じる中國(guó)語母語話者の割合が高い

      (3)聲調(diào)誤用③に関して?これも②と同様なケースで、第一音節(jié)の聲調(diào)と第二音節(jié)の聲調(diào)があっているため、第二音節(jié)のピンインに誤用が多少みられても、A意味が通じると考える中國(guó)語母語話者の方がB通じないと感じる母語話者より割合が高いといえる。

      (6) 1+2中國(guó) zhōng guó 我在中國(guó)生活已經(jīng)10年了 私が中國(guó)での生活は全部で10年になる。

      誤用聲調(diào)②では、第一音節(jié)の聲母が本來の音である“Zhōng”が“chóng”と大きなずれがあり、聲調(diào)にも誤用がみられるため正解率が非常に低い。したがって、B意味が通じないと感じる中國(guó)語母語話者がA意味が通じると感じる母語話者を上回る結(jié)果となった。

      一方で、聲調(diào)誤用①と③に関しては、雙方とも、第一音節(jié)においてピンインと聲調(diào)の両方が合っているため、第二音節(jié)の聲調(diào)にピンインに誤用が見られても、非常に高い割合で意味が通じていると考えられる。

      (7)1+4 醫(yī)院“yī yuàn” 我昨天感冒了,所以今天去醫(yī)院了 私は昨日風(fēng)邪をひいたので、今日病院に行きました。

      ①~③の第一音節(jié)の最初のピンイン“y”が正解であるため、聲調(diào)が①のように、第三聲になっていても、半分以上の中國(guó)語母語話者は、意味が通じると考えている。また③では、第一音節(jié)の最初の聲質(zhì)が正解であるため、第二音節(jié)に誤用が見られても、79.60%という高い割合で意味が通じている。③より①の割合が少ないのは、意愿(yǐyuàn )3+4聲という語彙と同じ聲調(diào)とピンインになってしまうためリスニング時(shí)に、全文でなく、単語であれば、正解率がもっと少なかった可能性も考えられる。

      (8)4+1這些 zhě xiē這些都是我爸爸給我買的東西 これらのプレゼントすべて父が私に買ってきてくれたものです。

      多くの先行研究が述べているように、日本語母語話者が苦手としているzheの発音であるが、①~③に関しては、すべて通じると考えている中國(guó)語母語話者が大半を占めている。一般的に多くみられるに誤用は、二聲を三聲に誤用することが多いというものであるが、①の例のように、四聲を三聲と聴き違える學(xué)習(xí)者もみられた。また、他に興味深い誤用としては、本來は、zhě xiēというピンインであるはずが、②のzhei xieのように、zheの後に無意識(shí)のうちにiをつける學(xué)習(xí)者がみられるということである。

      (9)3+4: 跑步 pǎo bù 每個(gè)星期天早上我喜歡去跑步 毎週の日曜日、ジョギングをしに行くことが好きだ。

      本來の音聲は、pǎo bù、3+4聲であるが、①では2聲、②では1聲の聲調(diào)誤用がみられた。また、③に関しては、本來第二音節(jié)の“bu”が第4聲が正解となるが、③では第一聲になっている。ここで見られる特徴としては、三聲の聲調(diào)は、二聲だけでなく、1聲に誤用されるケースもある。しかし、①~③においてピンインにおいても大きな誤用はみられないため、意味が通じているという傾向が強(qiáng)いといえる。

      (10)2+1 明天 míng tiān 我明天去學(xué)校考試私は明日學(xué)校に試験に受けにいく

      多くの初級(jí)中國(guó)語母語話者が中國(guó)語を?qū)Wび始めている段階で、発音時(shí)に二聲と三聲の區(qū)別ができないと答えている。しかし、③のmǐng tiānをみると分かるように、第一音節(jié)が三聲で誤用の発音であるにも関わらず、85.7%の中國(guó)語母語話者が意味が通じると答えており、B意味が通じないと答えたのはわずか14.7%である。他の語彙においても三聲から二聲、そして二聲から三聲の誤用がよく見られるが、それが原因で文の意味が理解できない、あるいは通じないと答えた割合は非常に少ないのではないかと考えられる。

      ③に関しては、一音節(jié)に鼻音のgがついてないだけでなく、第二音節(jié)のtiānがtiénで誤用となっているにも関わらず、①よりも高い割合で、中國(guó)語母語話者の多くが、意味が通じていると考えている。

      (11) 2+2同學(xué)tóng xué我同學(xué)的媽媽很漂亮私の同級(jí)生のお母さんは綺麗です。

      同學(xué)の誤用例を見ていくと、A意味が通じると思うと答えた人は、②では、66%、更に、③では89.8%と非常に高い割合で、中國(guó)語母語話者が意味が通じていると答えている。ピンインは正しいが、聲調(diào)に誤用があっても1聲である場(chǎng)合は、多くの場(chǎng)合、中國(guó)語母語話者が意味を理解することができると考えられる。①も意味が通じていると考えている學(xué)習(xí)者は多いが、第一音節(jié)の聲調(diào)が正しいにも関わらず、②と③の方が意味が通じると答えた中國(guó)語母語話者の數(shù)が多い。

      (12) 我沒有她好看 “沒有méi yǒu” 私は彼女ほどきれいではない。

      “沒有méi yǒu”に関していえることは、本來の第一音節(jié)は沒méiで、第二聲であるが、①と②は共通して、両方の第一音節(jié)の聲調(diào)に誤用がある狀態(tài)である。しかし、これも同様に、中國(guó)語母語話者が89.1%と74%の高い割合で正解できていると答えている。③の第二音節(jié)は本來yǒuと三聲であるにも関わらず、ここでは誤用で2聲となっている。しかしこれもまたAが81.10%と非常に高い割合で中國(guó)語母語話者が理解している。一般的に第二聲と第三聲は、日本語母語話者が中國(guó)語を?qū)Wぶ中でよく間違うものとして知られている。しかし実際には、日本語母語話者が考えているよりも、中國(guó)語母語話者には通じている傾向が強(qiáng)い。したがって、授業(yè)において聲調(diào)について必要以上の指摘を行うことはメリットにはならないのではないかと考えられる。

      (13) 今天的天氣(不好) 4+3 不好 bù hǎo 今日の天気はあまりよくない。

      ①に関しては、第一音節(jié)の最初の漢字のピンインが、本來は無気音のb(o)であるはずが、有気音のp(o)になっている。筆者の経験として、これらの聲調(diào)は教材を見たと時(shí)に違いは分かる。しかし、リスニングで聞いたとき、特に初級(jí)學(xué)習(xí)者にとってその區(qū)別は聞き取れないこともある。にもかかわらず、実際には61.8%で意味が通じている。②に関しては、第一音節(jié)は聲調(diào)が正解であるが、第二音節(jié)に関しては、本來第三聲であるが、ここでは、第二聲の誤用が見られる。しかし、84%の中國(guó)語母語話者は意味が通じると答えている。

      (14) 飛機(jī) fēi jī(飛機(jī))8點(diǎn)四十分起飛飛機(jī)飛行機(jī)は8時(shí)40分に離陸する。

      語彙そのものの聲調(diào)よりも、むしろ全體的な文の流れが大切で、全文が大體わかっていれば、語彙の意味は大抵理解できるのはないかと考えられる。その証拠に①の第二音節(jié)の第二のziというピンインが違うが、文を理解している中國(guó)語母語話者が大勢(shì)いることが分かる。単語1個(gè)1個(gè)を完全に理解していなくても、実際、中國(guó)語母語話者が意味を理解している割合が高いといえる。

      (15) 出門的時(shí)候弟弟對(duì)媽媽說再見 (zài jiàn)了 家を出る時(shí)、弟は母にさようならと言った。

      (15)のzài jiànに関する聲調(diào)の誤用に関しては、(8)で述べた4+1這些 zhě xiēの聲調(diào)誤用の項(xiàng)目と共通して、日本語母語話者が苦手としているピンインのzが使われている。聲調(diào)誤用の①に関しては、第一音聲のzàiは正解しているため、問題となるのは、第二音節(jié)のqiànという音である。聲調(diào)に誤用がみられないこと、そして、jiànという正しい聲調(diào)とqiànという音は日本語のカタカナにしたときに似たような音であるため、誤用ではあるがこの聲調(diào)で書く學(xué)習(xí)者がみられた。

      ②は、第一音節(jié)のピンインに誤用はあるものの、それより、第二音節(jié)のzènというピンインは、本來の正解であるjiànとまったく違う聲調(diào)とピンインであるため、Bの意味が通じないと感じる中國(guó)語母語話者が多くみられた。

      (三)発音誤用に関するまとめ

      この調(diào)査は、日本語母語の學(xué)習(xí)者に対し、何ら事前準(zhǔn)備もなく抜き打ちで行ったものであるため、學(xué)習(xí)者のありのままの現(xiàn)狀を把握できる結(jié)果となっている。そして、全體的な結(jié)果として、ピンインや聲調(diào)に関して誤用がみられても、中國(guó)語母語話者の多くは意味が通じると感じる傾向が強(qiáng)いことが明らかとなった。また、聲調(diào)の誤用において、次のような特徴が挙げられる。

      (1)全體的に聲調(diào)の誤用があっても高い正解率がみられたが、“zhōng guó”の第一音節(jié)において“chóng”がピンインと聲調(diào)のどちらにおいても大きな誤用があるとき、また、再見 (zài jiàn)の第二音節(jié)の“jiàn”が“zèn”に誤用されてしまうと、完全に違うピンインになる。したがって、中國(guó)語母語話者がリスニングをした際、前の文と後ろの文で意味を推測(cè)することができる可能性はあるが、正解率が下がる傾向がみられる。

      (2)bù hǎoとPù hǎoのように、有気音と無気音は誤用がある場(chǎng)合もあるが、“bù”と“Pù”の第一音節(jié)の音で、“ù”の音と聲調(diào)、また、第二音節(jié)のhǎoのピンインと聲調(diào)が正確であるため、中國(guó)語母語話者による意味を聞き取れている割合が高かった。

      (3)學(xué)習(xí)者は分からない語彙のピンインあるいは聲調(diào)を書くとき、自分が本來知っている、語彙のピンインと似ていると主観的に考えたものを無理やりあてはめようとする傾向がみられた。例として飛機(jī) fēi jīからbeiji、再見 zài jiànからzhài zenあるいはZei jian.などがあげられる。これは、授業(yè)數(shù)が少なく、普段、中國(guó)語の音に接する機(jī)會(huì)が少ないため、復(fù)習(xí)をしていないことの他に、リスニングをしても、瞬時(shí)に聲調(diào)とピンインが結(jié)びつかないからということも考えられる。

      (4)の2+4 :紅色 hóng sèに関する聲調(diào)の誤用のように、第一音節(jié)のピンインが正確で、第二音節(jié)の最初のピンインである“s”において多少誤用があっても、前文から意味伝達(dá)はできており、意味は通じている傾向が高いことがわかる。

      (5)リスニング時(shí)のピンインの書き間違いや誤用からも、分からない聲調(diào)やピンインに回答しなければならない場(chǎng)合、ローマ字やピンインを補(bǔ)おうと考える傾向が多くみられた。しかし、多くの場(chǎng)合、誤用のあるピンインや聲調(diào)につながる傾向が強(qiáng)く、初級(jí)學(xué)習(xí)者を教えるとき、ピンインはローマ字やアルファベットとは別物であることを伝えることが大切であると考えられる。すなわち、學(xué)習(xí)者は分からない単語があったとき、自分の既存知識(shí)を使用する傾向が強(qiáng)いことがみられた。

      (6)これまでの先行研究でも多く取り上げられてきたことであり、本章でもみられた結(jié)果であるが、學(xué)習(xí)者では第二聲から第三聲の誤用、あるいは、第一聲から第二聲の誤用が多くみられる。しかし、実際に二聲と三聲の誤用に関しては、これらのデータを中國(guó)語母語話者に聞かせた場(chǎng)合、結(jié)果的に誤用があっても、中國(guó)語母語話者が意味を理解している割合が高いことが分かる。

      (7)その他の傾向として、學(xué)習(xí)者は文字にして聲調(diào)やピンインを書くときは、正解でも、実際に口に出してアウトプットする際、聲調(diào)を誤用してしまうことが多くみられる。本來、アウトプットするということに対し、自信のない傾向が強(qiáng)い日本語母語話者が多いため、授業(yè)時(shí)間も制限されている中、結(jié)局は文字に頼ってしまう傾向が強(qiáng)い。結(jié)果として聞くこと、話すことを苦手とする學(xué)習(xí)者が増加することになり、ニーズの需要に適した會(huì)話を中心とした授業(yè)ができなくなることが多い。

      先行研究においては、日本語母語話者が苦手としている聲調(diào)に関するものは多く存在するが、日本語母語話者の誤用のある音聲を中國(guó)語母語話者に聴かせ、その結(jié)果を第二外中國(guó)語教育に活かそうという調(diào)査や研究はこれまでなかった。それは、孤立語である中國(guó)語の教育において、四聲や聲調(diào)は他の言語にはない特殊なものであるため、誤用があっては絶対いけないという考えが強(qiáng)かったからではないだろうか。しかし、第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の視點(diǎn)からみると、週2回という限られた時(shí)間の中で、中國(guó)語の聲調(diào)を完璧にマスターすることは、學(xué)習(xí)意欲に負(fù)の影響を與えかねない可能性がある。すなわち、短い學(xué)習(xí)時(shí)間の中で學(xué)ばなければならないことが多くなり過ぎて、結(jié)果としてそれが負(fù)擔(dān)となる。そして、多くの學(xué)習(xí)者は誤用することを恐れ、會(huì)話によるアウトプットができないということにも結(jié)びつくこともある。しかし、インプットした後、自分の口に出してアウトプットをしなければ、自分の発音に誤用があることに気づけず、修正することもできず、進(jìn)歩することは望めないのではないだろうか。

      今回、この第二外中國(guó)語學(xué)習(xí)者の発音に関する調(diào)査を通し、中國(guó)語母語話者58名のうち半數(shù)以上が、誤用のある聲調(diào)でも意味を理解することができるという結(jié)果につながった。したがって、學(xué)習(xí)者の発音の誤用に関して、多くを指摘したり、無理に修正させようとするのではなく、むしろ完璧な聲調(diào)で発音をすることが困難な狀況においても、學(xué)習(xí)者が積極的にアウトプットをすることができる環(huán)境作りこそが重要である。発音に関してそのような環(huán)境を作ることで、學(xué)習(xí)者が會(huì)話によるアウトプットを通し、自らの発音についてより深い気づきが生まれ、その気づきによって自己表現(xiàn)に対する興味や、楽しみを増大させていくことにつながるのではないだろうか。

      參考文獻(xiàn):

      [1]陸麗青日本語教育における自己を表現(xiàn)する力の育成について?形式へのこだわり?意識(shí)の変容の考察を通して60~61.

      作者簡(jiǎn)介:白煜,男,1984年4月13日,陜西西安,漢族,博士,單位:日本關(guān)西外國(guó)語大學(xué),研究方向:語言文化,第二外語教育。

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