劉影
【要 旨】1932年から1945年にかけて、日本は偽満州國で日本語教育、いわゆる「國語」教育を行った。その「國語」教科書には、偽満州國と日本のことだけではなく、戦爭に関わる軍事內(nèi)容も數(shù)多く書かれていた。これはまだ何も分かっていない子供たちに軍事教育を行い、幼い心に罪である戦爭の種をまいた行為であった。本稿は偽満州國の小學(xué)校で使われた「國語」教科書を手がかりに、特にその中の軍事內(nèi)容について分析してみることにする。
【關(guān)鍵詞】學(xué)校;「國語」教科書
一、國語教育概況
1932年から1945年にかけて日本は偽満州國で「五族協(xié)和」、「王道楽土」、「日満一徳一心」などのスローガンを掲げ、「満州國」全域にわたって日本語教育を行い、1938年からは「國語」(日本語)の一つとして教育を行った?!缎旅鹘鈬Z辭典》によると國語とは「國家を構(gòu)成する國民の使用する言語という日本人固有の意識のもとで、日本語を指す稱。」と定義されていた。つまり、「國語」というのは一國を代表する言語で、使用する主體はその國の國民である。しかし、実権がなかった偽満州國の傀儡政権は日本に操られ、學(xué)校では「國語」としての日本語教育が大いに行われた。それは、日本語は「日満一徳一心」の精神に基づいたものであって、「國語」として重視されるべきであるというような「常識」が統(tǒng)治者の間で合意に達(dá)成されたからである。教育は対外侵略の重要な一環(huán)であるから、當(dāng)権者は「國語」教育で人々に「満州國の國民」と「日満一徳一心」という意識を植え付けようとした。
偽満州國は主に五族からなっていて各民族によって多言語の制度が採用されていた。地域によって學(xué)校で「國語」として採用される言語が異なっていたが、日本語が優(yōu)先されるのが実態(tài)であり、日本語だけが偽満州國の全地域にわたって民族と地域を問わず各民族の言語の上に立つ「共通語」として重視されていた。學(xué)校での日本語教育が特に重視され、最初の多言語から日本語だけが「國語」になってしまい、日本語教授時(shí)間もますます増加され、結(jié)局第一の言語として位置付けられた。小學(xué)校の最初の四年間は初級小學(xué)校、次の2年は高級小學(xué)校と呼ばれた。日本語の教授時(shí)間は低學(xué)年から高學(xué)年へ上がることにしたがって増加した。1938年の「新學(xué)制」によって新たな政策が発布され、従來の初級小學(xué)校が「國民學(xué)校」に、高級小學(xué)校が「國民優(yōu)級學(xué)校」に変わった。日本語は國史、地理、自然、國民道徳などと一緒に「國民科」という科目にまとめられた。
つまり、日本の植民地統(tǒng)治の強(qiáng)化によって、日本語教育も日増しに強(qiáng)化されて偽満州國の「國語」となり、日本「內(nèi)地」以外の地域で行われた。そして、「新學(xué)制」を境にしてその前後の差が激しかった。
二、「國語」教科書の概況
教科書の內(nèi)容構(gòu)成から見ると、主に人物、伝統(tǒng)、自然風(fēng)土、古典、地理や道徳などがある。この中でも、日本と偽満州國に関わる內(nèi)容がもっとも多いのが実情である。偽満州國の領(lǐng)土範(fàn)囲、國旗、農(nóng)業(yè)などの概況以外に、日本の人物、伝統(tǒng)などを紹介しその「優(yōu)秀さ」を強(qiáng)調(diào)した。「日満の密接な関係」を表す內(nèi)容もある。
例えば、「手紙」は日本から偽満州國への手紙で日本の狀況を紹介した?!笘|京の乗り物」で東京の賑やかさを言及し、交通の便利さを描いた?!袱恧镣酥巍工咸煺沾笊瘠斡埭雾氉糁忻恧沥蛲酥韦工毪趣いθ毡兢挝粼挙驎い??!赣L日」は昭和10年に溥儀が日本を訪問することを書き「日満両國がいつまでも協(xié)力するしるしとして両國民が永く記念しなければならない歴史的盛事であります」と書いてあった?!竾瘛工蝹螠褐輫藢潳工雵乙庾Rや帰屬意識を喚起するために、偽満州國に関わる內(nèi)容も多く書き入れた。例えば「大きな町」では 偽満州國の地理範(fàn)囲を指摘した。
満州國 の 大きな まち わ どこ と どこ ですか。まんなかに ある 新京、南 の奉天、承徳、北 の 哈爾寶、齊齊哈爾、それから、新京 の 東 に ある 吉林 など です。
「新京」では偽満州國の「首都」を紹介した。
新京わ我が國のみやこで、皇帝陛下のいらっしゃるところです。
「萬壽節(jié)」では溥儀の誕生日の日を萬壽節(jié)に決め、「國民」が祝うことを描いた。
萬壽節(jié) ワ 皇帝陛下 ガ オウマレ ニ ナッタ オメデタイ 日 デス?;实郾菹?ワ ワタクシタチ 國民 オ 大ソオ イツクシンデ クダサイマス。コノ 日 ワ 國中 デ 國旗 オ タテテ オイワイ シマス。
三、教科書の中の軍事內(nèi)容
教科書で非常に目立つ內(nèi)容があるが、それは軍事內(nèi)容である。なぜかというと偽満州國と日本の概況は人々に「國」という意識を持たせるのと日本との親善関係を強(qiáng)調(diào)するのが直接的な目的であるが、軍事內(nèi)容はこれらの意志を含めながらも、日本が行っている侵略戦爭を美化し、戦爭常識を教えて戦爭に協(xié)力させるのが目的である。それにこの時(shí)期は日本が対外侵略を最も頻繁に行う時(shí)期で、教科書の軍事內(nèi)容の分析で日本當(dāng)局が教育を通して植民地の人にどのような思想を植え付けたかったのか、どのような考えを持たせたかったのかという日本當(dāng)局の意志が見られるのではないかと思われる。
1936年に出版した『初級小學(xué)校日本語教科書』の上冊は日本語の基礎(chǔ)が全く無い中國人向けの教科書なので、絵と簡単なカタカナしか書いてなかった。まだ成熟な思想と是非を區(qū)別する能力を持っていない子供たちに、覚えさせたい思想を植え付けるのが同化教育のもっとも効率的な方法ではないかと思われる。この教科書の前12課の內(nèi)容は絵だけであって何の文字も書いてなかった。13課になって初めて絵と文字が同時(shí)に出現(xiàn)したが、その最初の內(nèi)容が偽満州國の國旗であった。國旗のそばに「コレ ワ コッキ デス」というカタカナが書いてあった。これが最も大切であるから最初の位置に置いたという統(tǒng)治者の目的が覗かれる。まず、「國」に対する認(rèn)識や帰屬感を與えるのが「忠誠アル國民」の育成の第一番目の順序ではないかと思われる。
1935年の『高級小學(xué)校日本語教科書』は『初級小學(xué)校日本語教科書』に比べて內(nèi)容が多くなり、カタカナだけではなく、ひらがなと漢字も増加した。それに、學(xué)生の日本語能力もある程度上昇し、理解力も上がったからもっと複雑且つ難しい內(nèi)容を教える必要があった。例えば、『高級小學(xué)校日本語教科書』上冊の第十二課では「タンク ト ソオコオレッシャ」という名の內(nèi)容が書いてあった。
タンク ワ 戦爭 に 使ウ 車 デス。ノハラ デモ 山 デモ ジユウジザイ ニ ハシリマス。コウテツ デ ツツマレタ タンク ガ ジヒビキ オ タテテ 進(jìn)ム ノ ワ 勇マシイ モノ デス。
ソオコオレッシャ モ、コオテツ デ ツクラレタ モノ デス。大砲 ノ タマ ヤ 鉄砲 ノ タマ ガ トンデ クル トコロ デモ ヘイキ デ 進(jìn)ム コト ガ デキマス。タンク モ ソオコオレッシャ モ、大砲 ヤ キカンジュウ オ ソナエテ イマス。ソオシテ、ハシリナガラ テキ オ ウツ ノ デス。
満州事変 ヤ 上海事変 ノ トキ ワ、日本軍 ノ タンク ヤ ソオコオレッシャ ガ メザマシイ 働キ オ シマシタ。
上の內(nèi)容のように、軍事で多く使われているタンクと裝甲列車を小學(xué)生に紹介しただけではなく、「満州事変」と「上海事変」を例として日本軍の侵略行為を正常な軍事行為に美化して學(xué)生たちに間違った認(rèn)識を持たせて侵略を正當(dāng)化しようとした。中國人である學(xué)生たちに、中國の領(lǐng)土を侵略した外國人である日本軍の犯罪行為を「めざましい働き」だと教えるのは日本式の代表的な同化教育の「模範(fàn)」ではないかと思われる。そして、挿絵にはタンクが発砲している場面と日本の國旗がついてある裝甲列車の走っている場面である。それ次の十三課も「軍用のどおぶつ」という軍事內(nèi)容である。
満州事変 の時(shí) にわ 勇ましい 日本 の へいたいさん が めざましい 働き お しましま。その 時(shí) 馬 や 犬 や 鳩 も へいたいさんたち に まじって いろいろ の 手がら お たて ました。馬 わ 人 お のせたり 重い 大砲 お ひいたり 遠(yuǎn)く まで にもつ お はこんだり して、へいたいさん お 助けました。犬 も 戦場 に 出て お使い お したり、けが お して たおれて いる へいたいさん お さがしたり、てき に かみついたり して 働きました。鳩 わ 手紙 お 足 につけてでんわや でんしん の かわり に、遠(yuǎn)く まで 通信 お しましま。この 馬 や 犬 鳩 の うち で、とく に 手がら お たてた もの わ へいたいさん と おなじ よお に、くんしょお お お いただきました。又 戦爭 で 死んだ もの も、ていねい に まつられました。
內(nèi)容から見れば、前課での「めざましい働き」を続けて侵略軍を「勇ましい日本のへいたいさん」と褒めて戦爭に応じたのは兵隊(duì)だけではなく動物まで參加して「手がらを立てた」と述べた。教科書はこの戦爭の良し悪しを離れて、もっぱら日本軍を褒めて「戦爭は正しいもので、満州事変は日本軍の自衛(wèi)行為で正義な行為である」という意志を伝えている。したがって、動物も自発的にこの戦爭に參加し、「正義の味方」になった。この內(nèi)容を通して學(xué)生たちに伝達(dá)しようとするのは依然と戦爭の「正當(dāng)性」であろう。挿し絵は馬に乗っている「へいたいさん」が刀を持って前に向かって戦っている姿と戦場で「へいたいさん」と仲良く協(xié)力している動物の様子であった。
これ以外にも教科書に出る軍事內(nèi)容が多くある。西尾実は「日本語総力戦體制の樹立」という文章で以下のような內(nèi)容を書いたことがある?!复髺|亜戦爭の実體は思想戦である。思想戦の尖兵は言語であり、また、その後陣も言語である。大東亜戦爭の完遂の眼目は、大東亜全域に日本語を進(jìn)出させ普及させることでなくてはならぬ?!骨致预趣いΔ韦衔淞Δ握碱I(lǐng)だけではない。その思想戦、つまり言語や思想上の改造こそ肝心なところである。それが完成して初めて異國や異民族に対する侵略が完遂したといえる。したがって、占領(lǐng)者たちは「苦労」をいとわずに民族の未來を擔(dān)う子供や青年たちに同化教育をさせたことが分かる。
參考文獻(xiàn):
[1]山田忠雄、柴田武等.新明解國語辭典[M].東京:三省堂.2005年10月.
[2]『初級小學(xué)校日本語教科書』上冊[M].満州國文教部.1936年11月.
[3]『初級小學(xué)校日本語教科書』下冊[M].満州國文教部.1935年12月.
[4]『高級小學(xué)校日本語教科書』上冊[M].満州國文教部.1936年11月.
[5]西尾実.「日本語総力戦體制の樹立」[J].『日本語』.1943年1月.